いい会社視察記録

日本電鍍工業株式会社


「早く帰ってきて。このままでは家を売り出さなければならない。」

米国で宝飾の鑑定の資格も取り、現地での就職もほぼ決まっていた伊藤麻美社長のもとに連絡があったのは2000年のことでした。父が1956年に埼玉県で創業したメッキ業の日本電鍍工業株式会社は最盛期には180人の社員がいて、売上も40億円の企業で埼玉県内の高額納税企業ベスト5になったことがあるほど隆盛を極めていました。

しかし、父の急逝後、転がる石のように業績がガタ落ちになっていきます。亡くなってから麻美さんに冒頭の連絡があるまでの8年の間に社員は50人弱にまで減少、売上は10分の1にまで落ち込んでいました。無借金だった財務も10億円の負債を抱えるまで深刻な状況になっていました。

経営の右も左もわからずに強引に呼び戻され、会社の窮状を聞かされた麻美さんは、「社長をやってもらえないか?」といろんな人に当たったそうです。しかし、そんなに借金がある「死に体」とまで言われていた会社の引き受け手は誰も現れず、途方に暮れる日々を過ごします。

それまで会社に行くこともほとんどなく、社員と会ったことはありませんでしたが、弁護士や税理士などとの打ち合わせをしていく段階で、日本電鍍工業で働く社員の顔を見ているうちに、その向こう側にいる家族の姿が見えるようになってきたそうです。

「私は、この会社があったから、ここまで大きくなれたので、会社と私は双子の兄弟のような関係。そして、私がなんとかしなければ、社員と家族が路頭に迷うことになっちゃう。」と自身が経営者として継ぐことを決断します。最悪の場合、私が自己破産をすればいいという覚悟を決めての社長就任でした。

最初は挨拶してくれない社員がいたり、鼻で笑われたり、受け入れてくれる雰囲気ではなかったそうです。それはそうでしょう。ただでさえ女性経営者が少ないメッキ業界でズブの素人が経営者になるというのですから。しかし、支えになったのは「社員と家族の生活を守るため」という強い利他の想いが込められた動機でした。きっと自分のためだけだったら、10億円の借金を背負ったどうしようもないマイナスからの社長業など出来ない相談だったことでしょう。

「うちの業績を景気が悪いせいにしたくない。ただ、本当に悪い状態なので、私一人でできることではない。一緒に成長していきたいので、皆さん、お力を貸してください。」と心からの想いを発露して社員一人ひとりに丁寧に挨拶をすることから始めていきました。

麻美さんが社長就任の際に決心していたことがありました。それは「絶対にリストラはしない」ということです。動機が社員と家族の生活を守るということでしたから当然のことなのですが、当時は資金繰りが絶望的に悪く、金融機関に頭を下げても「あなたではなく本当の経営者を連れてこい。」とどこも貸してはくれません。あってはいけないことですが、社会保険料や税金を滞納しながら、なんとか社員さんへの給料を支払い続けて凌いでいきました。

素人とはいえ麻美さんには、亡き父から常々言われていたことを実践すればまだまだ会社が持ちこたえられる、という希望を胸に抱いていました。日本電鍍工業は時計メーカーの表面処理の指定工場になる高い技術力がその繁栄を支えていました。しかし、亡くなった創業者の父は常々「いつまでも時計のメッキに頼っていてはだめだ。常に先のことを考えて手を打っていくことで事業は安定し継続できる。」と言っていました。会社を斜陽させたその後の経営陣がこの言葉を守らず、時計メーカーからの仕事に胡坐をかき、会社を変化させることを怠ったために業績が下降した、とその原因をとらえていたのです。事実、多くの時計メーカーは海外へ移転し、受注が激減していくことになったのです。

麻美さんは会社に変化を求めました。「脱」時計に成功することで窮地から脱しようと社員に呼びかけたのです。

新SVC通信 第489号(2013.06.24)より


景気に左右されない分野の製品のメッキをすることで「脱」時計を計っていこうと思案した伊藤麻美社長は「健康と美容と医療」の分野に進出することを決意します。

問題はどう営業していくかということです。

会社は内弁慶で外のことを知らないし、社会も同社の技術についての認識がないと感じ、インターネットで同社がメッキで出来ることの情報提供を始めました。また、伊藤社長自身がビッグサイトなどで開催されている電子部品や精密機器などの展示会に足繁く通い、ブースを回って「すいません、これってメッキじゃないんですか? うち、メッキ屋なんです。」と名刺交換をしたそうです。若い女性社長のメッキ屋ということで相手にはすぐに覚えてもらえたそうです。

ほどなくしてホームページを見て医療器具のメーカーからの問い合わせが入ることになります。そのメーカーは他のメッキ屋と何年も取引していたそうですが、うまくいかないので「もう一回、ゼロからスタートしよう」と思ったタイミングでの出会いでした。カテーテルに金メッキを施すという仕事でした。

しかし、話を聞いた社員は出来ないとあっけない返答です。「これができなかったら、もう会社ないよ、仕事ないよ。」と伊藤社長は職人に根気よく投げかけを行います。出来ない理由は沢山あるけれど出来る理由、方法を考えることをするから成長できるという自身の人生経験から得た信念で接していきました。そうすると、たとえば10人「できない」と言っていたのが9人「できない」になって、8人「できない」になって。2~3人が「じゃあ、やってみましょう」となり、やってみると出来る、ということが実現していきました。

こうして、やがて社員の信を得るようになっていきました。お父さんにすごくお世話になっていたので、なんとか御嬢さんに恩返しをしたいと工場長を中心に一丸となっていきました。

たとえばたった一つの製品にメッキをするような、他社では無理という仕事も受注しています。少品種多量のメッキをすべて手作業で行うということで、なくてはならないメッキ屋へと変貌していったのです。

売上が大きく伸びる訳ではありませんが、付加価値の高い仕事が同社の基軸となっていき、社長就任3年にして黒字化に成功することができました。かつては8割を占めていた時計のシェアは現在2割程度となり、バランスのよい経営体となっていきました。こうした取り組みが評価され、新たな銀行取引が成立し資金繰りも大きく改善され現在に至ることになりました。

日本電鍍工業の伊藤社長の経営からの学びを整理します。

絶対にリストラしない、社員と家族の生活を守るという究極の人を大切にする想いが奇跡的な好転を生み出しています。ここの本気度がやはりもっとも重要で欠くことが出来ないと改めて悟らされました。

視察時のお話で何度も「意識」というキーワードが出てきました。意識次元を高め続けていく努力もまたとても重要なことだと感じさせられました。伊藤社長によれば、常にいろんな方と会って、いろんな方の話を聞くことで意識次元を高く保つ努力をされているようです。とにかく、自分をシャットしない、いつもオープンでいることが大切だと述べられています。実際に素晴らしい方とのご縁や良書との出会いが人生を大きく好転させていくことは確かです。

また出来ないのではなく出来るために頭を使う意識もその後の結果を大きく左右させます。現状でいいと縁づくりや出会いの機会づくり、新しいことへのチャレンジの努力を怠っているとかつて日本電鍍工業がそうであったように衰退していく負のスパイラルに落ち込んでしまうのです。肝に銘じて行動をしていきたいと感じます。

どれだけ高い技術、いいものをつくっていたとしても、そのことを知らしめる売るための努力をしないことには打開が計れないという真実も同社の事例でまた確認できました。

伊藤社長の話を聞き、まだまだ全然やり切れていないと反省しきりとなりました。感謝いたします。

新SVC通信 第490号(2013.07.02)より



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